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新しい時代のための覚醒・スピリチュアリティを模索するブログ


by keburi

今回は観照意識について書きます。ようやくここにたどり着きました。ここからが本題と言えます。
エゴの欠点をやたらあげつらったのは、批判してそれで終わり、というわけではありません。エゴと思考の性質を理解しておかないと、少しでも気を抜くと私たちはエゴの方にフォーカスしてしまうためです。エゴのトリックについては十分書ききれていないので、これからもちょいちょい登場すると思います。

エゴ/自我(その2)で少し触れましたが、私たちの意識にはエゴの背後にいて、エゴとその活動である思考を見つめている存在がいます。それは「気づき」とか自覚、アウェアネス、もしくは観照意識と呼ばれます。
陶芸家の河井寬次郎さんの言葉に「驚いている自分に驚いている自分」というものがあります。何かの刺激に対してエゴが反応し、驚いている。同時にエゴが驚いていることを認識し、それに驚いている存在が、意識の中にいる。この言葉は非常に簡潔に、しかも明晰な形で観照意識の存在を教えてくれています。

普段私たちはこの「気づき」そのものを意識していません。前面に出てくるのは、考え事をしている時に、何か物音を聞いてそちらにフォーカスが移行するような時です。それまでの考え事では観照意識はエゴの生み出す思考にフォーカスをあわせています。思考から外部の物音に一瞬フォーカスが移動する瞬間に、その存在が感知されます。

観照意識がエゴの方ばかりを見ているとき、私たちは自己をエゴに同一化している状態になります。こうなると感じている苦痛や怒り、快楽、喜びなどの感情に完全にコントロールされてしまいます。ここから脱出する一歩となるのが、「観照意識が自分自身を認識すること」です。

この状態をプレゼンスあるいは「覚」と呼ばれています。「覚」に在るとき、エゴからフォーカスが外れます。思考のおしゃべりは力を失い(完全な沈黙ではありませんが)、私たちは自分が「今ここ」にいることを発見します。

諸宗教の神秘主義的な伝統、とりわけ仏教では「今ここ」にいることが強調されます。エゴは「今ここ」にいることが出来ず、常に将来への不安あるいは期待、過去への後悔へと行ったりきたりしています。常に思考のおしゃべりが続いているこの状態は私たちからエネルギーを奪い、意識を混濁させます。一方、「覚」にある時、私たちはエゴのノイズに悩まされることをやめます。「今ここ」に在る事が可能になるのです。思考にエネルギーを浪費することがなくなり、蓄積されます。それは非常な明晰さの獲得です。

観照意識は自己を意識し、感じる主体でありますが、思考はしません。ですので「覚」が安定すると、思考はもはや私たちをコントロールする主人ではありません。同一化から逃れているので、苦痛に満ちた思い出も、これからに対する不安と恐怖も、それを「あるがまま」に在らしめることが可能です。エゴと思考は、必要な局面で呼び出して使役できる存在となります。

観照意識は私たちの内奥への入り口です。そして「覚」は観照意識の力を強めます。エゴばかりを見てきた観照意識は「覚」によって自分自身を、そして私たちの実相、さらに真我の領域を感じ取れるように成長していきます。「覚」はスピリチュアルな道の入り口とも言えるでしょう。

観照意識へのフォーカスは瞑想などの技法を通じて培うことが可能です。具体的な方法については次回以降の記事で紹介します。
# by keburi | 2010-04-13 00:22 | 覚醒の道
タイマー法に続く「生活の知恵」第2弾であります。

うつは良くなってきても「おっくう感」はなかなか取れません。仕事や家事に復帰したものの、以前は簡単に出来ていた作業がどうにも手をつけられない、ということが頻発し、気がつけば山のように積み重なったタスクを前にして身動きが取れなくなっている、ということも珍しくありません。

そこで私が実践しているルールとして「やさしいことから手をつける」があります。

仕事の場合の例です。私は手帳に毎日タスクリストを書いています。朝一はその中から、もっとも手をつけやすい、心理的に抵抗感のない作業を開始します。ルーチンワークがあるのでたいていそれをやります。それが終われば、タスクリストに完了のチェックを入れ、二番目に楽にできそうな仕事に着手します。終わったらチェックし、そして三番目・・・と繰り返します。
もちろん抵抗感が完全になくなるわけではありませんが、単純な作業でできた勢いがあると、困難な作業に対する抵抗感は、いきなりやるよりずっと軽減されています。また、朝一の心身ともにエンジンがかかっていない状態で着手するより効率がよくなっていることが多いです。また、タスクが消えていく達成感の積み重ねが心理的にも良い影響があると思っています。

タスクリストを作るのがおっくうだ、という方もいらっしゃると思います。そうであれば、リスト作りは省いても問題ないと思います。とにかく主観的に楽だと思える作業からとりかかっていくのがこのルールのポイントです。

タスクを作った後に、一番困難な仕事にとりかかる人もいます。先に難儀な仕事を片付けておいて後は楽をしよう、と方針ですが、これは経験上おすすめしません。うつ病の影響下にあり、しかも朝一の場合、効率が著しく低下します。なかなか進まない仕事にイライラが募り、無力感すら感じられるかもしれません。これでは例の悪い連鎖、負の拡大スパイラルを呼び出すことになりかねません(私は困難な方からやるとたいていそうなってしまいます)。
あるいは難度は高くないものの、心理的な抵抗感の強い作業の場合、なかなか手がつけられず、なんとかかんとか気力を振り絞って片付けたとしても、心理的にヘトヘトになってしまいます。これも単純作業である程度調子が出てから取り組むほうが疲労度が軽いと思います。

脳を研究する学者さんによると、「勝手にやる気が出る」ということは稀で、「やるからやる気が出る」のだそうです。手足を動かすことで脳が自らやる気を生み出していく、ということなのですね。これを知ったのはルールを適用した後だったのですが、この方法はこの原理を利用したもの、と言えそうです。

「タイマー法」と組み合わせると悪い波の中でも作業をこなすのが比較的容易になると思います。お試しのほどを。
# by keburi | 2010-04-07 00:40 | うつ病

エゴ/自我(その2)

自我/エゴ(その1)の続きです。エゴについての悪口ならいくらでも書けるのですが、この辺りで切り上げて「じゃ、どうしたらいいの?」という方向に舵を切りたいと思います。

・偽りのアイデンティティ

思考は一見論理的ですが、常に恐怖の影響を受けています。そのため思考の動因はエゴを守るか、拡大するかということに尽きます。敵が青銅のオノを持てばこちらは鉄の剣を、という論理はエスカレートしていき、弓矢、銃、大砲、果ては一旦使えば自他を滅ぼし、得るところの皆無な核兵器を作り出してしまいました。メカニズムは高度なのに、これを作り出した動因はエゴの拡大という果てしのない愚劣さです。

また、エゴは自分を守るため、常に外部に何かの物語を探し、それを同一化の対象として取り込み、アイデンティティとして使おうとします。肩書き、社会的な立場、職業、家庭での役割、集団への帰属意識・・・手に入れたそれら物語は一瞬エゴを喜ばせますが、構造的に渇愛を有しているため満足は得られず、さらに強い物語を求めて外部への要求を始めることになります。

私たちはエゴを自分自身だと思っています。絶え間ない思考のおしゃべり、これに自己を同一化しているのです。ですのでネガティブな想念であったり、エゴが行なっている「裁き」、あるいは恐怖といった感情そのものと自分自身を区別することができません。この状態では本当の意味では一時も心が休まることがありません。常に未来に対する不安、それも考えられる限り最悪の事態をありありと想像したり、思い出したくもない過去の不快な記憶が無限ループで自動再生されることに始終苦しめられることになります。自分自身がまるでその恐怖であったり、後悔そのものであると認識しているので、この状態ではそれらの苦痛から逃れる術がないのです。
そしてエゴの声に始終コントロールされているために、私たちの行動はどこか上の空です。考え事を常時しているために、行動に気づきが伴いません。卑近なレベルでは出かける時に何度確認しても火の元、戸締りに不安があるのはこのためです。猛スピードで車を運転し、ペットボトルをポイ捨てします。

このようにエゴとの同一化は私たちの意識レベルを低く抑えてしまいます。恐怖と不安は私たちにまともな判断をすることを許しません。事物から「情報」を取り出すというエゴの知覚方法は私たちの世界認識を貧弱なものにしてしまいます。結果、私たちのほとんどは魂とその側面である感受性や知性がその機能を十分発揮できない状態にあるのです。これが「眠り」、無意識と呼ばれる状態です。私たちは夢を見ているとき、低い意識レベルの状態にあります。表面的には目を覚まし、肉体的な活動を開始しても、思考に意識を占領されていては「人間として十分に」覚醒しているとは言えない状態なのです。

思考とエゴの背後には「気づき」が存在しています。例えば、考え事をしている際に、物音など何かの拍子に注意が思考から別のものに切り替わる瞬間を認識したことがあると思います。この注意を司っている主体を「気づき」、アウェアネスあるいは観照意識と呼んでいます。「エゴとの自己同一化」とはアウェアネス、観照意識のフォーカスがエゴの方に当たっていることを指しています。「自分」を認識する主体がエゴ/思考の言うことばかりを聞いています。ですので苦しみと同一化してしまうのです。

・エゴは敵か
ここまでで私はエゴのことをこれ以上ないほど辛辣に扱ってきました。そして諸宗教においてもエゴは最大の敵、時には「サタン」などととも称されて制圧・克服すべき対象であるとされてきました。精神世界について少しでも学ばれた方はご存知かと思いますが、現代のスピリチュアリティにおいても同様ですね。しかし、エゴを悪だと、敵だと見なしているのは誰でしょう?
そう、他ならぬエゴなのです。裁きはエゴの機能なのです。努力、忍耐、克己を重ねてエゴの克服を私たちに命じるもの、その正体はエゴです。そしてエゴには渇愛があります。要求はどこまで言っても終わりがありません。エゴでエゴを制圧することはできません。論理思考はどれほど正しく見えても自分を包含している存在であるエゴの性質を超越することはできないのです。

そして不可能であると同時に、制圧すべきものでもないのです。エゴは便利なもので、肉体的に私たちが生きていくためには必須の機能です。もしエゴと論理思考がなくなってしまえば、ちょっと電車に乗って出かけることもできなくなってしまうでしょう(こういう例は実際にあります。爆発的な覚醒の体験で一時的にエゴが脱落し、食事を摂るのも困難になってしまったケースが報告されています)。
人間存在を馬車に例える説明があります。そこでは肉体は馬、エゴは御者、主人が本来の自己(真我)とされています。現代人はエゴがあまりにも力をつけすぎて御者ではなく、主人のように振舞って好きな方向に馬車、肉体を使役しているというのです。極端に単純化されているものの、これはかなり正確な例えであると思います。エゴはエゴなりで最善を目指してその機能を発揮しています。しかしやはり主人ではなく、馬車に本来の機能を回復するためには「本来の自己がエゴを使役する」という関係を取り戻す必要があります。

・エゴの支配からの脱出
アイデンティティをエゴから本来の自己に取り戻すこと、具体的には観照意識が向けているフォーカスの方向を変えることがエゴと思考からの、そして苦しみから逃れる第一歩となります。これが実現できた時、私たちを悩ませる自我は実は敵ではなく、有用な友であったことに気づきます。詳しくは観照意識の記事で書くことにします。
# by keburi | 2010-04-06 00:31 | 覚醒の道
エゴの悪口をアホほど書いてたら調子がおかしいです。
やはり「裁き」をやってしまうのでエゴが活発化してしまうんですな。
ということで覚醒がどうとか言う話はペンディングで、また軽い話題をば。

音楽で深い瞑想状態へ誘導できるのではないかな、と思い、いろいろ試しております.
もちろん静かな状態でやるのが正攻法だと思っていますが、導入の時に少しでもしきいを下げる助けになるといいなあ、と。

音楽の理論はよく知らないのですが、倍音というやつがあって聞いていると気持ちいい。
集中して聞いているとトランス状態にもなるらしいですね。
ディジュリドゥでボーとするのはその効果らしいです。

タールがわが家にやってきた_f0232052_354866.jpg倍音が出る手軽な楽器ということでタール(フレームドラム)を買いました。
アメリカはレモ社の製品で、直径14インチのもの。2800円と安価です。
ヘッドがプラスチック製なのですが、うまく加工してあって皮張りに見えます。
楽器にはずっと触ってなかったし、マンション住まいゆえにドンドコ打ち鳴らせることもできないので練習時間もとりにくく、なかなか上達しないと思いますが、ま、ぼちぼち。
ちなみに娘がタールを膝の上に載せて叩いているのを見て「タヌキみたい~」というので、このタールの名前は「たぬきポンポコ号」にしようかなと思っています。
教則本も買いました。こんなマイナーな楽器に日本語の本があるというのも驚きですが。
大久保宙さんという超絶技巧パーカッショニストの方が書かれた本です。こちら。
まだ少ししか読んでいませんが、これがとっても良い本です。懇切丁寧。
私みたいなズブズブの素人でもすんなり理解できます(だからと言って叩けるわけではないですが)。

で、フレームドラムって結局どんなん、ということでYouTubeから紹介。
まずは熊本比呂志さんのデモプレイ。この方も若いのにすごい技巧派。
このビデオ、音がけっこう気持ち良いです。


教則本の著者、大久保宙さんのデモ。
音があまりよくありませんが、技術のすごさは伝わるかと。


ドイツの世界的プレイヤー、デビッド・クッカーマンのウードとのセッション。
ため息が出ますねえ。


フレームドラムは音楽療法にも使われるそうです。
またその辺りも調べることができればお伝えしたいなと。
# by keburi | 2010-04-03 03:31 | アートと音楽

エゴ/自我(その1)


今回はエゴ、自我について書きます。が、純粋な心理学・哲学用語としてのエゴではありません。私はそれらの学問を体系的に学んだことはありませんし、あくまでも瞑想などを通じて学んだ「私の理解」であることをご承知置きください。

・エゴの役割
エゴは意識の下部構造で、論理思考と記憶を担当する部分です。外部世界の「情報」を取得し、それを論理的に再構築して整理し、記憶に貯蔵します。人間のいわゆる「知的」とされる作業の大部分は思考によってなされています。大方の勉強や学習、職業的な訓練はエゴを通じて行なわれます。エゴは分析が得意で、科学を発展させ、人類の物質的な繁栄を支えてきました。多くの社会ではエゴの一部である論理思考能力・記憶力が高いことが尊敬と高い収入・社会的地位を得ることに直結しています。

・エゴの問題
こう表現するとエゴを礼賛しているかのようですが、実際にはエゴは問題だらけの存在です。

まず、エゴは対象物の直接的知覚を妨げます。最初に「外部世界の『情報』を取得する」とかぎかっこで囲いました。これは、エゴが外部世界を見る時に情報としてそれを認識するということを強調したかったためです。事物からエゴの役に立つかどうか、その基準で世界を丸めて理解しようとします。たとえば花を見たとします。「花だ」「赤い」「チューリップだ」と文脈的な理解を行ないますが、ほとんど上っ面を撫でて記憶におさめてそこで終わります。「いちいちそんなものにかかずりあってはいられない」のがエゴのスタンスです。

エゴには実体がなく、その中心は果てしのない暗黒です。習慣的な反応の集積であって私たちの本質のような満ち足りた輝きではありません。この性質から満足を得ることができない構造になっています。「あるもの」を無視し、「足りないもの」にフォーカスをあてて常に我が身の不運を嘆き、苦しみを作り上げます。どんなに素晴らしいものが手に入っても「もっと良い物があるはずだ」、努力に重ねて難関の大学に入っても「もっと上の大学に入れても良いはずだ」...この苦しむを産むシステムを仏教では渇愛と呼んでいます。

批判精神の塊であるエゴは、他者・社会といった外部の事物に対してつねに文句をつけています。「マナーが悪い」「こんなこともわからないなんてバカばっかり」「ださい服を着てやがる。恥ずかしくないのか」....。こういう態度を私は「裁き」と呼んでいます。そして裁きは恐怖と罪悪感を生みます。誰かに対して裁きを行なえば「自分も裁かれるのではないか」という恐怖が生まれます。「こんなことを思う自分は罪人だ」という思いも生じます。誰かに言われ、罪人扱いされたならばまだ抵抗しようもありますが、自分がそう思っているものは覆し様がありません。どんなに見ないようにがんばってみても、それは飛び出す機会を狙っています。ひとたび解放されたなら、恐怖と罪悪感は手に手を取って私たちを狂気の方向にドライブします。
この「裁き」の矛先は自分にも向けられます。「もっと美人だったら」「もっと賢かったら」「何故自分はこんなに劣った存在なのか」・・・渇愛をベースとした際限のない自分への裁きは私たちに無力感を与えます。そしてそれを信じることで、私たちは実際に無力な状態に幽閉されるのです。

エゴは「今ここ」にいることができません。未来、未知のものに対する不安と記憶・過去に対する後悔に力いっぱいとらわれています。次から次へと不安に対処する思考を生み出し、罪悪感を糊塗する思考を生み出し、「今この瞬間」のリアリティから私たちを遠ざけます。
実は、時間とはエゴが認識している幻想です。私たちは「今、この瞬間」にいることしかできません。これは常識的に考えてもそうです。未来に行って戻ってこれる人はいませんし、過去へのアクセスも不可能です。時間旅行者が実在するとしても、その人が認識しているのはその時点での Here & Now でしょう。私たちの生を満たすものとは、「今ここ」を全一に体験することなのです。

究極的な問題とは、エゴによってもたらされる分離意識です。私たちの本質は、最終的には「全なる一者」です。例えるなら「地上から見ると別々の植物体に見えるが、一つの地下茎でつながったシダ植物」のようなものなのです。ですがエゴは私たちを別々の、分離した存在だと思い込ませたがり、ほとんどの場合、それに成功します。表面的な、物質的な観点ではまさしくそのように見えるからです。

そしてエゴに支配され、分離の夢を信じ込んでいると私たちはお互いにコミュニケーションをとることが非常に困難になります。対話をする時にでも、相手を直接知覚することができないので、エゴが把握できる範囲での相手のイメージに話し掛けます。それが双方向に行なわれており、存在同士が交流するというよりはコンピュータ同士の情報のやりとりに近いものになってしまいます。お互いが理解できるのは果てしなく面積がゼロに近い「点」の領域になってしまいます。近親者、親友、どんなに豊かな人間関係に恵まれていても私たちが孤独に苛まれているのはこのためなのです。

長くなってまいりました。エゴ/自我(その2)に続きます。
# by keburi | 2010-04-02 02:10 | 覚醒の道